政治

台湾研修記録 考える9月3日の意味|五指山軍人公墓・忠烈祠・高砂義勇隊から見る日台の絆

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はじめに

93日「軍人節」は台湾における戦没者追悼の日であり、日本との歴史的な関わりを振り返る重要な機会です。
私は元航空自衛官で元那覇市議会議員として、そして保守的な立場から、五指山国軍示範公墓や忠烈祠、高砂義勇隊慰霊碑、台湾大学などを訪れ、日台の歴史と未来の絆を考察しました。

五指山国軍示範公墓と忠烈祠

台湾新北市汐止区にある五指山国軍示範公墓は、1982年に開設された国軍の国立墓地です。
今回は「大和桜塾」主催の研修に参加しました。

特勲区には第7~9代総統李登輝元総統も眠り、毎年9月3日「軍人節」には国家追悼式が行われます。
2015年には馬英九総統が演説を行い、抗戦勝利と国軍の貢献を称えました。
今回は、李登輝元総統のお墓に参りました。

また、台北の忠烈祠は1969年に建て替えられた国家的慰霊施設で、唯一の日本人烈士山田良政も祀られています。
日本人としてここを訪れたとき、敵味方を超えた敬意と和解の姿勢を強く感じました。
過去は、現実としてとらえ、未来をともに築いていくことが大きな一歩であると感じています。

台湾総統も「忠烈祠」に9月3日に行っており、8月15日の靖国参拝については「戦争美化」ではなく「国(今の私たち)のために殉じた方々への慰霊顕彰」であるとなってほしいものです



台湾の抗日戦争

台湾の抗日戦争(1937–1945)は、日本統治下(1895–1945)の台湾社会が直面した最大の戦時経験です。本記事では、背景から戦後の影響までを中立に整理し、ブログ読者にも短時間で概要把握できるようにまとめました。

台湾の抗日戦争の基礎知識

1. 背景(1895–1937)

日清戦争後の1895、台湾は清朝から日本へ割譲され、以後50年間の日本統治が続きました。インフラ整備や教育制度の拡充など近代化が進む一方、政治的参画や言論・文化に制約があり、社会の同化・抵抗・適応が併存しました。

2. 戦争期の台湾(1937–1945)

  • 台湾人兵士の動員:志願兵制度・徴用を通じ、多くの台湾出身者が中国戦線や太平洋各地に派遣されました。戦時産業や軍属としての動員も拡大。
  • 抗日運動の展開:一部の活動家は中国大陸に渡り、国民党・共産党側の抗日活動に参加。宣伝・医療・後方支援から武装闘争まで役割は多様でした(例:台湾義勇隊など)。
  • 立場の複雑さ:日本に協力した人々、抗日に加わった人々、生活防衛を最優先した人々が混在し、単線的には語れない社会の多層性が特徴です。

3. 結果と影響(1945年以降)

1945年の日本敗戦により、台湾は中華民国の統治下に移行。戦争は、

[*] 統治の転換:日本統治からの離脱と新体制への編入
[*] 歴史的つながりの再確認:中国本土との人的・政治的連関の再構築
[*] アイデンティティの複雑化:日本統治期の経験、戦時協力と抗日の記憶、戦後政治の変化が重なり、多元的な台湾意識が形成

要点サマリー(3行)

日本統治下の近代化と制約が同時進行。
台湾人は戦地動員と海外抗日で相反する役割を担い、立場は多様。
戦後は統治転換と記憶の多層化が進み、台湾アイデンティティが複雑化。
台湾の『抗日戦争』と『日中戦争』は同じ?
一般に同時期(1937–1945)の戦争を指し、中国側では「抗日戦争」と呼称します。
台湾人は皆、抗日だったの?
いいえ。動員・協力・中立・抗日など立場は分かれ、地域・職業・時期で異なりました。
戦後すぐに社会は安定した?
統治転換に伴う混乱や政策転換が続き、安定化には時間を要しました。

台湾の抗日戦争は、動員と抗日、協力と抵抗が交錯する複雑な歴史経験でした。単純化せず、多様な当事者の目線を押さえることで、現在の台湾社会と歴史認識の成り立ちが見えてきます。

烏来高砂義勇隊慰霊碑

台北郊外・烏来には高砂義勇隊戦没英霊紀念碑があります。

太平洋戦争期、日本軍の一員として戦った台湾先住民兵士1万人以上を追悼する碑で、李登輝氏揮毫の「霊安故郷」が刻まれていました。(現在は、その刻まれた土台は台風の被害によりなくなった模様)
2006年には「日本賛美だ」との批判で撤去命令が出されましたが、住民や親日派の尽力で保存されました。
2015年の土砂災害で埋没しましたが、現在も復旧活動が続けられています。
歴史認識を超え、戦没者を慰霊する民間の努力こそ、日台の未来志向の絆を象徴していると感じます。

烏来老街と泰雅民族博物館

温泉で知られる烏来は、先住民族タイヤル族の文化を伝える観光地です。
旧「臺北州烏來招待所」を改修した泰雅民族博物館では、顔面刺青や織物、狩猟具などが展示され、週末には舞踊公演も行われています。
日本統治時代の建物と台湾先住民文化が融合する姿は、まさに日台文化交流の架け橋でした。

RTI台湾国際放送と台日文化経済協会

RTI台湾国際放送は、1928年開局の中央廣播電臺を前身とする台湾唯一の国営国際放送局です。
戦時中「重慶のカエル」と呼ばれた不屈の放送局は、今も14言語で世界150か国に民主台湾の声を届けています。

更に資料館ではこれまでの歴史を示す機材等があり、歴史を感じるものもありました。

さらに、1952年設立の台日文化経済協会は、日台の文化・経済交流を牽引する民間団体。2022年には安倍晋三元首相の追悼広告を日本紙に掲載し、民間外交の力を示しました。

台湾大学と安倍晋三研究センター

台湾大学には、日本人農学者磯永吉が蓬莱米を育成した記念小屋が残されています。卒業生らの寄付で修繕され、日台の学術交流の象徴となっています。
さらに2024年、国立政治大学に安倍晋三研究センターが設立予定。自由で開かれたインド太平洋(FOIP)を学び、日台の戦略的協力を強化する拠点となります。

そして、その夜には台日文化経済協会との交流会

3日目には、立法院と総統府に足をのばしました

とりあえず濃密でなかなか行けない場所にも行けたということで、今後も研修などを行っていきたいと思います。

まとめ

今回の台湾訪問で私は、戦没者慰霊から学術交流まで、日台関係の深い絆を再確認しました。
歴史を直視しつつ未来を見据えること、そして自由で開かれたインド太平洋を共に守ることが、日台の責務です。
私は今後も保守の信条に基づき、台湾との友情と連携を強めてまいります。

今回の研修は「大和桜塾」の研修に参加しました。ご興味のある方は、中身のあるツアーに参加してみませんか??








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