はじめに
2025年8月31日、沖縄県宜野湾市の沖縄コンベンションセンターで開催された第28回日米ジョイントコンサートは、音楽を通じて日米の絆を感じられる貴重な催しでした。陸上自衛隊第15音楽隊と米海兵隊第3海兵遠征軍音楽隊が共演し、クラシックから現代曲まで幅広い演目で観客を魅了しました[1]。無料(要整理券)という形式で行われ、多くの市民や家族連れが訪れました。
しかし一方で、会場前では午後4時から抗議活動が行われました。チラシには「日米軍事一体化に反対」と記され、数十人規模の参加者がプラカードを掲げ声を上げました[2]。音楽と抗議が同じ場所で交差する光景は、沖縄における「言論の自由」と「公共の安全」、さらには「日米関係」の複雑な現実を象徴するものでした。
本稿では、この出来事を通じて浮き彫りになった課題を、保守と革新双方の立場から整理し、さらに私自身が宮古島で体験した対話や議論を交えて考察します。自衛隊の意義を再確認しつつも、異なる立場の人々との議論を通して学んだことを共有したいと思います。
日米ジョイントコンサートの背景と意義
自衛隊音楽隊は「国防」という枠を超えて、国民と自衛隊をつなぐ文化的役割を担ってきました。災害派遣の現場で演奏して被災者を励ましたり、国際親善の場で演奏して日本の信頼を高めたり、学校を訪れて子どもたちに音楽を届ける活動も行っています。
今回のジョイントコンサートもその延長線上にあり、音楽を通じて「日米同盟の協力関係」を市民に伝える意図が込められていました。これは軍事行動ではなく、文化外交の一環といえるものです。音楽を通じて国境を超えた友情を育む活動を否定することは、国際社会での信頼構築をも否定することになりかねません。
沖縄における抗議活動の文脈
※表面は国旗に「×」を書いてて、目の前には「令和のタケちゃん」が頑張っています(タケちゃんインスタ)
沖縄は戦後一貫して基地問題を抱えてきました。その歴史的背景から、日米合同の活動に対して警戒心を抱く人々が一定数存在します。今回の抗議も「軍事一体化の象徴」としてコンサートを捉える立場から発生しました[2]。
しかし、ここで問われるのは「抗議の自由」と「イベントを楽しむ権利」との調和です。音楽を聴きに来た市民にとって、抗議活動が大声で行われることで不安を感じる人もいたでしょう。逆に、抗議者にとっては声を上げることが自らの信念の表明であり、歴史への責任感の表れでもあります。
保守的立場の見解
私は抗議そのものを否定しません。むしろ、異なる意見を表明できることは民主主義の強さの証でもあります。しかし、やり方を間違えれば「言論の自由」ではなく「他者への攻撃」となってしまいます。
特に問題なのは、若い隊員やその家族に対し「人殺し」などの言葉を投げかける職域差別的な発言です。これは彼らの尊厳を深く傷つけるものであり、未来を担う世代に誇りを持たせるどころか萎縮を生みかねません。
自衛隊は災害派遣でも活躍し、多くの命を救ってきました。その活動を知らない世代に、否定的な言葉だけを浴びせることは不公平です。私は自衛官に入隊させた親御さんに誇りを持ってほしいと強く願います。
革新的立場の見解
抗議者の側にも一貫した主張があります。「自衛隊が文化や教育の場に入ること自体が軍事化だ」という考え方です[3]。那覇市立小学校でのコンサート中止もその文脈で語られました。また「米軍との合同演奏は軍事的協力の象徴であり、地域社会に軍事を浸透させる」との批判もあります。
沖縄戦の悲劇を背景に、「軍事に市民を巻き込むな」という意識は根強く、感情的には理解できます。しかし、この立場には「自衛隊を地域から排除したい」という感情論が強く、現実的な安全保障議論にはつながっていません。
革新的立場の矛盾
革新的立場の矛盾は明らかです。「基地内ならよいが、地域での演奏はダメ」という議論は一貫性を欠きます[3]。また、宮古島トライアスロン大会で自衛隊員が支援した際、「迷彩服は政治的だ」と批判されましたが、住民からは「いざという時に頼れる存在」と評価されました[4]。
つまり、「存在を認めるが、見えないところにいてほしい」という要求にすぎない場面も多く、これは建設的な議論を遠ざけるだけです。
宮古島での清水さんとの対話
今回の抗議を考えるうえで、私が印象深かったのは宮古島での清水さんとの直接対話です[6]。問題発言で注目された彼に、私は率直に問いかけました。
私:「抗議活動は止めません。ただ、若い隊員や保護者に『人殺し』という言葉を投げかけるのは違うのでは?」
清水さん:「『頭おかしいのか』は隊員に向けた言葉ではない。報道が誤って伝えたので抗議している。孫世代の隊員に敵意はない。」
しかし同時に彼は、「人殺しの訓練であるのは間違いない」「台湾有事は講和で解決すべき」と主張しました。議論は平行線をたどりましたが、最後は写真を撮り、互いに理解の一端を共有できたと思います。
別の活動家との議論
さらに、別の活動家とも長時間にわたり意見を交わしました。その内容を整理すると以下の通りです。
- Q1: 自衛隊は人殺しの訓練をしているのでは?
A1: 確かに殺傷能力の訓練は行っている。しかしそれは「緊急避難」「正当防衛」と同じで、国民を守るために不可欠なものだ。 - Q2: 日米共同訓練は戦争を呼び込むのでは?
A2: 防衛省が発表している「レゾリュート・ドラゴン25」[8]のような訓練は、他国に対する示威ではなく抑止力を示すものだ。高度な連携を見せることで、むしろ戦争を遠ざけている。 - Q3: 有事の際、自衛隊は住民を守らないのでは?
A3: 住民避難は自治体の責任であり、国民保護計画がそのためにある。ただし自衛隊は同時に戦闘準備を行い、住民が安全に避難できる環境を作る。 - Q4: PTSDに苦しむ隊員がいる。戦争で命を落とすのはおかしい。
A4: その指摘は理解する。しかし隊員は使命感を持って国を守る。例えば小牧基地の墜落事故では、2人のパイロットが市街地を避けるために池に機体を落とし、住民を守って殉職した。これは自衛官の使命感の象徴だ。
歴史的比較から見えること
今回の抗議は過去の歴史とも比較できます。1960年の安保闘争では、デモ中に女子学生が死亡し社会問題となりました。1971年の成田空港建設反対闘争では、警察官が殉職しました。いずれも「抗議の自由」と「公共の安全」のバランスが問われた事例です。
沖縄の抗議活動も同じ課題を抱えています。声を上げる自由は守られるべきですが、暴力や人権侵害を伴う行為は許されません。今回のコンサート抗議は大きな混乱を生まなかったものの、その潜在的リスクを考えれば議論を深める必要があります。
まとめ
日米ジョイントコンサートは音楽を通じた交流の場でありながら、抗議活動によって沖縄の社会的対立が可視化される場にもなりました。「言論の自由」と「公共の安全」のバランスをどうとるかは、今後も重要な課題です。
私は改めて訴えたい。抗議する自由は認める。しかし、職域差別や人格攻撃は断固拒否する。 自衛隊員もまた、国を守る使命を持つ国民の一員であり、その誇りを傷つける言葉は許されません。
そして、自衛官を育て送り出した家族の皆さんには、誇りを持っていただきたい。音楽も、訓練も、すべては「国民を守る」という一点に集約されます。今回の出来事と対話を通じ、私はより一層その思いを強くしました。
Reference List
- [1] 陸上自衛隊第15旅団「第28回日米ジョイントコンサートについて」(2025年8月21日) https://www.mod.go.jp/gsdf/15b/
- [2] 表現者クライテリオン 藤原昌樹「日米ジョイントコンサートに抗議する不思議」(2025年8月8日) https://the-criterion.jp/
- [3] J-CASTニュース「空自音楽隊コンサート、那覇市立小で開催中止に」(2025年1月30日) https://www.j-cast.com/2025/01/30501081.html
- [4] 琉球新報「陸自、迷彩服で大会支援 宮古島トライアスロン」(2025年4月21日) https://ryukyushimpo.jp/news/national/entry-4171605.html
- [5] 沖縄タイムス「音楽コンサート、沖縄県が後援取り消し」(2025年7月4日) https://www.okinawatimes.co.jp/
- [6] 大山たかお公式ブログ「宮古島駐屯地に関する報道について」(2025年8月26日) https://ohyama.site/archives/3097
- [7] 大山たかお公式ブログ「宮古島『許可取ってこい』騒動を読み解く」(2025年8月10日) https://ohyama.site/archives/3078
- [8] 防衛省「日米共同実動演習 レゾリュート・ドラゴン25」 https://www.mod.go.jp/
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