目次
はじめに
6月定例会において対馬丸記念館の展示資料について一般質問を行いました。本質問の趣旨は「安全な場所へ避難させ命を大切に守るというよりも ~中略~ 次の戦力となる子供を確保することが真の目的でした」という部分に対するものでした。この見解については、対馬丸記念館が主張することは、間違ってもいませんし、訂正をしたほうが良いとも言っていません。
歴史に対する考え方の中で、1つの事象をいろいろな角度から見たときに、「次の戦力となる子供を確保することが真の目的」と表現することもあるかもしれませんが、疎開(避難)の本旨は「安全な環境で教育と命を守る」ということではないかと思い発言をしました。
今回の議会
議事録
戦後80周年を迎える中で、対馬丸記念館を含めた那覇市内の各種戦跡や資料館等を、平和教育の資として活用するべきであると思うが見解を問います。
○野原嘉孝 議長
大城敦子総務部長。
○大城敦子 総務部長
お答えいたします。
対馬丸記念館や戦跡等につきましては、平和の尊さを学び、沖縄戦の実相を次の世代へ継承するための平和教育や平和学習に欠かすことのできない重要な場であると認識しております。
また、戦後80年を迎え戦争体験者の証言などを直に聞くことが困難になりつつあることから、今後はそのような場の活用が一層求められるものと考えております。
本市では、対馬丸記念館を青少年ピースフォーラムにおける事前学習で活用しているほか、恒久平和のモニュメントなぐやけ周辺には、あらたな刻銘の設置等を予定しており、引き続き那覇市戦没者追悼式や平和学習などに活用できるよう取り組んで参ります。
○野原嘉孝 議長
大山たかお議員。
○大山たかお 議員
それでは、対馬丸記念館内に先日私行ってきました。その対馬丸記念館内のパネルに。沖縄から8万人を本土へ2万人を台湾へ移すことになりました。しかしこれは、安全な場所へ避難させ命を大切に守るというよりも軍の食料を確保し、戦闘の足手まといになる住民を戦場から退避させ果てしなく続く戦争の次の戦力となる子どもを確保とすることが真の目的でしたと書かれています。
このことについては当局方は御存知でしょうか。
○野原嘉孝 議長
大城敦子総務部長。
○大城敦子 総務部長
お答えいたします。
対馬丸記念館においては、様々な体験談や資料が展示されていることは承知しておりますが、議員御質問の表記については詳細は存じあげておりません。
○野原嘉孝 議長
大山たかお議員。
○大山たかお 議員
この対馬丸記念館というのは非常に重要な施設だと私も認識をしております。しかしながら、先ほど私が質問した内容については、私の価値観からすると、疎開、もしくは避難に関しては全く違う見識であります。
パネルに書かれている、避難をさせてそして兵士にして戻してくるということについては、確かに長期化すればそのようになる可能性がゼロではないので、全く間違いとは言いませんが、真の目的は戦闘における住民避難、住民を戦場に巻き込まないということが真の目的ではないかなというふうに思っております。学習施設として、このような(間違っている)※削除記述については適切でないと思いますし、疎開や避難に関する誤った見識が生まれるのではないかというような危機感も感じております。
台湾有事最近いわれておりますけども、その中で本島避難についても色いろ対策が取られていると思います。その際に、これをみた児童生徒が兵士になるために避難するんでしょと言われた時に、一体私達は何を思って違いますというふうに説明するのかというのも考えております。
戦後80年を迎える中で、対馬丸記念館については平和学習のために必要な施設です。その戦後80年の中で、戦争体験者の声が直接聞こえなくなってくる問題から、あくまでも体験者の見解した体験者の結果、そして史実にも続く資料館や戦跡の維持・保存が重要ではないかなというふうに思っております。そのため以下質問をします。
那覇市ホームページに71か所の戦争遺跡が遺構があると書いてありますが、今後これらの戦跡の維持管理についてどのように考えておりますか。
○野原嘉孝 議長
加治屋理華市民文化部長。
○加治屋理華 市民文化部長
お答えいたします。
現在、本市では公園や民間地を含め約80か所の戦争遺跡が確認されております。内訳としては、日清・日露戦争の忠魂碑や砲弾跡が残る鳥居、戦闘機を隠すための掩体壕や砲台跡、司令部壕など日本軍に関するもののほか、住民が避難したガマと呼ばれる自然壕などがあります。これら戦争遺跡の大半を占める壕の中には、本市の都市開発の中で消失の危機にあるものや、すでに崩落が確認され、立入りが禁止されている場所もございます。
本市としましては、改めてこれら戦争遺跡の現状把握に努めながら、保存のあり方について検討してまいります。
○野原嘉孝 議長
大山たかお議員。
○大山たかお 議員
質問については終わりますけれども、やはりこの戦後80年の中で様々な環境が変わってまいりました。平和をこちらが求めても周りがそうではない時も十分今の環境では考えられております。この対馬丸記念館非常に無実の罪というか、一般住民が巻き込まれたということで非常に大きな問題であり、私個人的にはパールハーバーに行ったことがありますけども、その時にボーフィンという沈没をさせた潜水艦が飾られていると日本人として非常に悔しい思いをしている。その中で私たちは戦後80年を迎える中で、やはり沖縄戦という総括をしていかなければならないのではないかなというふうに思います。戦争体験者の声は非常に重要です。しかしながら、実際に動いた史実というのも重要であり、そこを感情だけで動いてしまうとまた同じ過ちを犯す可能性も多々あるのではないかなというふうに感じております。私は自衛隊出身ではありますが、その中でやはりどのようにして日本を守るのか、住民を守るのかということに命を懸けてきました。先日小牧でT4という練習機が墜落しましたけども、その時も恐らくではありますが、地域住民の方に被害がないようにそのまま池というかダムというか、そこに操縦して航空機を墜落させたのではないかと。これは平成11年の時に入間川でもT-33という練習機が周りに被害を及ぼさないよう川のほうに向けて住民に被害が無かったというようなこともあります。決して命を落とすことが素晴らしいとも美しいとも思いませんし、私がパイロットの教官の時は、必ず自分たちの命は自分で守りなさいというふうに教えてきましたし、最後についてはその使命感、自分がなぜここにいるのかということも伝えてきました。その結果、機長としてそして操縦者として判断をしていってもらいたいということ伝えたことを思い出します。
※個人の書き起こしなので、議事録ではありません。
沖縄県史
沖縄県史という資料があります。そちらの中に以下の資料があります。
学童疎開については、日本が劣勢であることから政府は疎開の奨励が始まりました。
昭和19年7月18日に内政部長あいさつの中で
「集団学童疎開 初等科三年以上の男子は将来の大事な人的資源である。集団的に安全なる地に教師が連れて疎開させる。医師も附添う」と書かれていますが、ここの「将来の大事な人的資源」を「戦力となる子供の人的資源」と捉えるのか、「戦後、沖縄県をけん引する人的資源」と捉えるのかで意見が分かれるところだと思います。
昭和20年3月16日には、首脳者会議において、教育環境が悪化してきていることが話されています。
沖縄県内政部長より「学童集団疎開準備に関スル件」が昭和19年7月19日に発出されます。
疎開については、希望者が募り疎開する事業となり、このことにより、全国的で行われていた食料の確保と同様に県内での食料確保が目的の1つであることが分かります。
また、疎開希望しないものについての教育についても留意することが示されます。
沖縄学童たちの疎開
琉球新報社から「沖縄学童たちの疎開」が発行されていましたので、当時の方々の思いを見てみたいと思います。
これらの疎開経験者を見ると、沖縄県民の血を守るために疎開を行ったことや、香淳皇后(昭和天皇陛下の皇后)からの恩賜のお菓子をもらい「次の世を、背負うべき身ぞ、たくましく、正しく伸びよ、里にうつりて」と全国疎開学童のために詠まれた御歌が忘れられないと語られているお話や、、子どもを疎開させることを批判された家庭が学校長から「学童疎開は国の方針である。軍の命令である。決して卑怯なことではない。逃避ではなく安全な場所で教育を続け、次の日本を背負う国民を育てるのだ。」と懸命にさとされて学童疎開に加わった逸話などが記載されています。
「間違っている」を削除した理由
対馬丸記念館の重要性については、一般質問の中でも話してきましたし、表記についても間違いでないことは話しています。その中で「疎開」というものを考えたときに、自分のもっとも大事にしている観点が違うところを話すときに錯誤して「間違っている」と発言をしたので、削除しました。一般質問をみても分かると思いますが、対馬丸記念館の表現が間違っていると発言しているところはありません。
「間違っている」と断定した発言を意図とせずにしてしまったことは反省をしています。記者会見の中で「対馬丸記念館の館長、遺族関係者などに不快な思いをさせたかもしれない」ということで謝罪いたしました。
まとめ
さまざまな勉強をしてきた資料はありますが、今回については「疎開というものは、安全な場所で教育を続け、将来のある子どもたちを残す」という認識を私が判断した一部を紹介しました。
途中の資料でもありましたように香淳皇后の御歌で疎開児童を思いをお伝えしたり、先日も天皇皇后両陛下及び愛子内親王殿下も対馬丸記念館に来館され「対馬丸記念館」は、非常に重要な施設であると思っていまし、議会でも発言しています。
今回のことは、表記がおかしいということではなく、戦後80年を考える中でどのように次の世代につなげていくかを問題提起したかったところです。とくに昨今の状況では一般質問でも発言したように台湾有事に対して県外移動を考えるようになった状況において「この表記であれば、子供は素直だから疎開したら、兵士になるの」と言われそうと市民のかたと話したことがきっかけでした。
歴史については、様々な見方などがあることは十分に理解をしていますし、私の意見が正しいとも言いません。なので「疎開」という事象に関して、さまざまな見方があることは理解しています。
対馬丸で被害をあわれた方からすると「疎開のせいで、親族がなくなった」と思われる気持ちも十分わかります。戦争という悲劇の中で、様々な思いが複雑に交差するものであると思います。
対馬丸記念館については、非常に重要な施設なので、今後の平和学習のなかでも活躍され、那覇市議会議員としても何か力になればと思います。
もう二度と戦争のない世界に
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